水月ホテル鴎外荘の女将中村みさ子さん
鴎外が住まいとした鴎外荘の居間は「舞姫の間」として残されています。
水月ホテル鴎外荘の女将の中村みさ子さんにお話を伺いました。(2019年4月24日取材)
 
鴎外荘について
 
Q:鴎外はこの池之端にどのような縁で居を構えたのでしょうか。
 
中村 : まず、この家は明治19年(1886)にここに建てられまして、森鴎外が『舞姫』を書き文壇にデビューした旧居として今年で築133年を迎えております。関東大震災や第二次大戦等の空襲も免れました。玄関から鴎外荘の建物までの基礎にはほぼ全域にわたって岩盤が入っているため、震度7.9の関東大震災にも耐えた大変運の強い家です。
 この邸宅は元々は赤松家の持家で、宮大工が建てていますので釘を一本も使っておりません。赤松家は静岡県の磐田にありますが、明治の頃には、このような家を東京に四軒も構えておられたとの事で、ここはその内の一軒です。森鴎外が赤松家のご長女だった登志子さんと結婚されため、この家が新居として選ばれました。鴎外さんは御養子ではないのですが、ここは森家になり、ご結婚なさった翌年の明治23年(1890)1月3日にここで『舞姫』を発表されました。
 そのため、ここが森鴎外の文学の発祥の地と言って頂いておりまして、中庭に「舞姫の碑」と「於母影(おもかげ)の碑」の文学碑が建てられています。二つの文学碑があるのはここだけと言われております。ここに鴎外さんがお住みだった頃は、ここから無縁坂を登りまして不忍池を回り、蓮玉庵という蕎麦屋さんに立ち寄ってこの家にお帰りになられたそうです。晩年の小説『雁』の舞台にもなったと言われています。
 
舞姫の碑。碑文は鴎外の子息の森類(もり るい)氏が選定され、鴎外研究者の長谷川泉(はせがわ いずみ)氏の尽力の下、建立されました。
 
舞姫の碑とともに建てられた、於母影の碑。文学碑はどちらも当時の玄関の石が用いられています。
Q:鴎外荘を購入された経緯についてお聞かせ下さい。
この家を買ったのは昭和21年(1946)でした。ここに最後に住まわれていた方が売りに出されました。私どもは、昭和18年(1943)に鴎外荘の隣で水月旅館を始めまして、その3年後に鴎外荘が売りに出されました。鴎外さんが住まわれていたという事実がありましたので、大変高価な家だったそうです。私どもの創業者は創業のためにお金を使い切った後で、手元に資金がない時でしたが、何がなんでもここを入手して守らないと、この家自体が存続しないだろうという危機感もあり、借金してようやく手に入れたと聞いております。
ここで鴎外さんが『舞姫』を書いて文壇にデビューされたという紛れもない事 実もありますので、私どもの創業者が鴎外荘を何としても残さなければという一念でここを購入したという事も大変大事な事だと思っております。この家を大事にし、お客様に使って頂き、私どものホテルが健全な経営をしていくことがここを維持していくことにつながると考えております。たくさんのお客様に鴎外荘に来て頂いて、ここを知って頂き、明治の文豪森鴎外がこういう所に住まわれていたという事を一人でも多くの方にお伝えする事が私どもの使命と思っております。そのため、毎日ここでお食事をして下さるお客様には嫌が応にも私の説明がついてくる事になっております。
Q:鴎外旧居の敷地を、水月ホテルですべて購入されたのですか。
敷地は切り売りされていたのですが、私どもが約八百坪ありました赤松家の土地をすべて購入していた事が判明しました。私どものホテルの端には、赤松家のシンボルの赤レンガがあります。
私が20年前に女将になりました時には、あまりに森鴎外の事を知りませんでしたので、それを心配して下さいました森鴎外研究では第一人者と言われている長谷川泉先生がいろいろと教えて下さいました。あるとき、赤レンガがあるという話をしましたら、是非見たいとおっしゃって一回り見て下さいました。これは間違い無く赤松家の時代の赤レンガで、よく残ったものだとおっしゃっていました。(右段に続く)
赤松家の敷地を示す赤レンガの一部が今も外壁に残されています。
Q:庭も当時のままなのでしょうか。
 
 手は入れておりますが、ほぼそのままです。池があって、植木も正面の榧( カヤ)の木 は300年余ですし、クロガネモチも300年、ザクロは200年以上を経ていますから鴎外さんが住まわれる以前からあったものです。
 
玄関脇には、樹齢250年余の堂々としたクロガネモチの木があります。
 
Q:平成14年(2002)に復元されたのはどこでしょうか。
 
 玄関なのですが、玄関と於母影(おもかげ)の間は新しい部屋なんですね。この邸宅は男爵家の由緒ある家なので家相を大事にしており、巽(たつみ)の方角から福が来ると信じられていた時代でしたので、玄関は東南(巽の方角)にありました。動物園通りに面して巽の方角に当時は玄関があったと聞いています。以前のホテルを建てました際に玄関を現在の場所に移したのですが、平成14年(2002)に直しました。
 玄関にあります下駄箱は森鴎外が使用していた下駄箱です。とても古いもので、明治19年(1886)頃のものだと言われています。釘が一本も使用されていない下駄箱です。
 
 
Q:下駄箱以外にも鴎外の遺品は残っているでしょうか。
 
 古い内蔵があります。江戸時代の蔵といえば火災から守るという使命がありますから、多くは外蔵が主だったという事ですが、この家は身分が高い方の邸宅でしたので、火災から守るというよりは、雨が降っていても蔵に入る事ができるという利便性を優先したのではと言われています。
 
内蔵は、現在は「蔵の間」として、会食に利用されています。
蔵の扉は、重厚で格調高く当時の姿を留めています。
舞姫の間には、上官の記念像制作の際に刻まれた鴎外直筆の碑文が、墨磧(ぼくせき、肉筆の事)由来の記として掛けられています。
 
Q:鴎外に因んだ催しが、何かありますでしょうか。
 
 今はお出ししていませんが、鴎外さんは石焼きいもがお好きだったので、石焼きいもに見立てたミニチュアのお芋を森鴎外の好物として懐石の付け合わせの一つにお出ししていた事はあります。
 鴎外の好物で有名なのは饅頭茶漬けで、以前落語家さんがこちらで召し上がった事はあるのですが、それはお客様の企画でしたので、こちらでご用意したことはありません。
 
鴎外(森林太郎)の"MR"のモノグラムが調度に銘されています。
水月ホテル鴎外荘の女将中村みさ子さん
水月ホテル鴎外荘は、明治22年(1889)にドイツ留学後に過ごした鴎外の旧居を敷地内に留めています。この鴎外荘で『舞姫』、『於母影(おもかげ)』等の初期の作品が著されました。(台東区池之端3-3-21)






